No.558-1,Dec.3, 2021, 記述することの政治性、 誰でも記述できる仕組みつくり with Kenya, GISシリーズNo.8-3

ディスカッション:地球の全てを記述する、記述したい世界にする、とは?

今週は、“冒険”地理学を探求する田村賢哉さん(以下、Kenyaさん)とのトーク完結編です。今回は、先週までのトーク(No.556-2, No.557)を受けての、Kenya、Wataru、Mugiko、Ryuta、4人でのフリーディスカッション。それぞれの視点から、Kenyaさんの掲げる「地球の全てを記述する」「記述したい世界にする」とは、どういうことなのか議論しました。

Part1, 見知らぬ場所への憧れ、地理を学ぶ醍醐味

Part2, 記述、公開する怖さ、知ることと支配すること、「私」とは誰か

Part3, パラダイムシフト、情報の中央と「辺境」

見知らぬ場所へのあこがれこそ地理の本質 by Kenya

あの土地には有るものがこの土地には無いなど、場所ごとのヒト・モノ・コトの偏在をじっくり観察しながら記述するのが、地理を学ぶ醍醐味だと思っています。現在取り組んでいる、次世代型データベース「APLLO」、可視化プラットフォーム「Re:Earth」開発は、どう地理情報を記述し表現したら、冒険心やワクワク、見知らぬ場所へのあこがれ、をみんなで共有できるかというモチベーションで取り組んでいます。ただ、今回のディスカッションを通じて、情報を全て記述することは必ずしも皆にとって喜ばしい事ではないのかもしれないと改めて気づかされました。プライバシーほか情報発信の怖さへの対処も考えながら、私の考える地理学者の 2大使命「地球の全てを記述する」「記述したい世界にする」をコツコツ果たしていきたいです。

科学における進歩は「パラダイムシフト」にあり by Wataru

Kenyaさんが取り組んでいる、主観や文脈も保存・表現できる地理空間データベース・可視化プラットフォーム開発というのは、成功すれば、GISの歴史から見ても革命的な事だと思います。イリノイ大学で地理学の思想史を学んだ際、学問というのは「パラダイムシフト(発想の転換)」を繰り返しながら発展してきたとを教わりました。それに基づいて説明すれば、これまで、GISというのは定量的な解析(数値計算、幾何学的表現)を得意としてきましたが、Kenyaさんの取り組みは、いわゆる定性的な情報をも上手く取り込むかたちになるので、まさに発想の転換をもたらすことになります。

質的研究へのGISの応用は「クリティカルGIS」と呼ばれ注目されつつありますが、まだまだで 、Kenyaさんが第一人者になる可能性が十分にあります。さらに、開発の成果物を専門家の専売特許ではなく、一般の人にも使いやすい形で普及させようとしているのも特筆すべき点です。APLLOとRe:Earthを用いた面白い研究事例が、どんどん生まれそうでワクワクしますね。-Wataru

「記述する」ことと「支配する」こと by Ryuta

私は「記述する」ことと「支配する」ことの間には密接な関係があると考えがちなので、自分が学んできた分野を含め、人間や、人間の生活、人間が生活する環境を記述してきた学問は、どうしても純粋な知的好奇心以外の過去を背負っていると思います。その中で「すべてを記述する」ことを目指すためには、記述される側に (拒否、対抗をを含めた) どのような介入ができるのか、できるべきなのかを、対話し、導き出していく必要もあるのかもしれません。

「ヒトにデータベースが合わせる」

その一方で、「データベースにヒトが合わせる」のではなく、「ヒトにデータベースが合わせる」ことで、「誰でも」記述できるように、という取り組みに共感もおぼえました。たとえば沖縄のある時期に関する記録は、歴史的経緯とあいまって、多くが米国ワシントンDCのNARA (National Archives and Record Administration; 米国国立公文書館) で保管されていて、これまでは、沖縄の小学生や中学生が探究学習の対象としてこれらに興味を持ったとしても、ワシントンDCか、少なくとも東京の国立国会図書館に (現在の国境で定められた「中央」に) アクセスする必要がありました。この状況は、(まだ多くの課題がありますが) インターネットを使ってアクセスできるデジタルアーカイブの普及で変わっていくと思います。より多くの組織や人が、より多くの情報を、歴史や文脈、前提なども含めて、発見できる、アクセスできるかたちで残していけるようになることで、乗り越えていくことができるものもありそうです。- Ryuta

未知の世界を知ることと政治性 by Mugi

KenyaさんとWataruさんのお話をうかがって、地理学と文化人類学の歴史は重なることが多いと改めて思いました。どちらも、未知の世界と他者との出会いへの好奇心が原点にありますが、同時に、様々な政治目的のもとでそれぞれの学問が展開してきました。文化人類学者は、調査対象の社会に入り現地と関わりながら観察し情報を収集し、異文化を理解しようとしてきました。その背景には、対象社会を支配、統治する植民地主義が深く関わっています。1980年代後半に私が大学院へ進学した頃の文化人類学は、これまでの異文化理解の政治性を批判的にとらえつつ、そこから文化の多様性を知るという行為の可能性を考えようとしていました。

ありのままを捉えるとは?「私」がゆらぎながらズレから学ぶ

Kenyaさんがトークの中で述べられた「確かにその場にあった雰囲気、質感、文脈、解釈」を、文化人類学もまた扱い記録しようとしてきました。定量化して他と比較可能な情報を収集する一方で、「データ化するとどこかに消えてしまうもどかしさ」は、フィールドワークにおいてもしばしば経験します。

1980年代末にバングラデシュ農村でフィールドワークを始めたときに、自分が住む村の世帯や住民についての「基本的」な情報を集めようとしました。しかし、なかなか難しい。例えば、生年月日を尋ねても、「曜日」が返ってくる。兄弟なのに、弟の方が兄より年上となる。そもそも、人々の暮らしにおいては、ベンガル暦や西暦や宗教によって、状況によって、歳月を刻む暦からして異なります。フィールドワークとは、調査項目からこぼれる、現場でのさまざまなズレの感覚から、その社会について学びが始まります。

「私」は誰か、何者か

また、異文化を見ている「私は誰なのか」と自問すると同時に、その社会において「あなたは何者か」と問われ続けます。外国人の私を村に受け入れるときに最初にこう尋ねられました。「あなたが死んだらどうしたらいいか?」イスラム教徒とヒンドゥー教徒が住む村でした。宗教によっても身体と魂のあり方も異なります。あなたの場合はどう扱えばよいか。私は彼らの深い問いにうまく答えられず、「私が死んだらDhakaにある日本大使館に連絡してください」とだけ言いました。

未知との出会いとは、「わたし」もゆらぎながら人と場所と時間にふれ、学び合うプロセスだとしたら、「ありのままを捉える」とはどんな行為で、誰のための情報なのか。Kenyaさんたちがすすめる次世代型データベース「APLLO」、Wataruさんが曰く「主観や文脈も保存・表現できる地理空間データベース・可視化プラットフォーム開発」、Ryutaさんが表現されたデータベースにヒトが合わせる』のではなく、『ヒトにデータベースが合わせる』ことで、『誰でも』記述できるように、という取り組みがどのように展開するのか、とても興味があります。

時に情報は人を深く傷つける、それでも、何をどう伝えたいのか

この10年あまり、毎週、ラジオ番組を制作しアメリカのコミュニティラジオ局から発信し、メディア空間に会話の場を開く試みをしながらも、私は、情報とはとても怖いものだと思っています。ある問題への異なる立場からの解釈や何を事実と捉えるかの見解の相違は、時には、人を深く傷つけ、時には自分たちと違う他者の存在を認めない、「無いもの」にしようとする力さえ働きます。それが連鎖反応をうみ、大きな波となることもあります。自分が無防備にその流れに晒され消される怖さもフィールドワークの現場で私自身も経験してきました。

情報を開くことによって想定外の事態を生じうることを考えつつ、それでも何をどう伝えたいのか。Kenyaさんがいう「記述したい世界にする」という発想と姿勢は、私にとってはとても新鮮でした。その意味を、私もHarukana Showの活動や自身の表現をとおして、いろいろ人と出会いながら考え続けたいなあと思います。 Kenyaさん、Wataruさん、Ryutaさん、8回GISシリーズ、3回にわたって刺激的なお話をありがとうございました。皆さんからのコメントを楽しみにしています。Mugi

Mugikoさんの言う、情報発信の怖さや地図が国境を引いてしまう問題は、「地図は現実を映すもの以上に、現実を作り出すもの」として、私がTAをしている授業 [GEOG 105 The Digital Earth] でも教えます。Ryutaさんが触れて下さった デジタル格差 の問題も扱っています。この話は、奥が深いのでまたの機会に。Wataru

 

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