「星空と路」上映室、会場で震災の記録映像をみるということ
2016年2月27日と28日に、せんだいメディアテーク(smt)で、「3がつ11にちをわすれないためにセンター」(わすれン!)主催の「星空と路」上映室へ行きました。上映された映像のなかには、センターのサイトにあるアーカイブから見ることができるものもありますが、smtへ行き会場で映像を見たい、と思っていました。上映室の案内にはこう説明されています。
3月11日の星空から5年が過ぎようとしています。
「3がつ11にちをわすれないためにセンター」の参加者は、ビデオカメラなどの技術や経験の有無にかかわらず、震災にまつわる様々なことがらを記録してきました。
そこには、震災による被害の状況、変わりゆく地域の姿だけでなく、参加者一人ひとりの想いや言葉が映し出されています。個々のまなざしによって記録された映像を通じ、また、震災という事象をとらえ、残そうとする人びとの軌跡を通して、これまでの道のりを振り返る時間を過ごすことができればと思います。
小森はるか『息の跡』からの唸り声
最初の映像『息の跡』(制作:小森はるか、撮影地:岩手県陸前高田市、撮影日2013年1月―2015年10月、制作年2015年)は、岩手県陸前高田市の「佐藤たね屋」の佐藤さんが、津波で甚大な被害を受けた跡に再建したお店を舞台した映像記録(108分)です。
佐藤さんは、そこで種屋を営みながら、被災記録を英語と中国語で執筆し自費出版し、それを何度も読み直し書き直し語り続けます。自分の暮らしの言葉ではなく、そこからずっと遠い言語を学びながら、伝えるために書き、それを声に出して読み、自らを励ます。自分の書き物を英語や中国語で読む佐藤さんの声が、見ている人のお腹のなかにどんと響いてきます。
佐藤さんの声は、力強いけれど、「自分は、何をやっているんだろう」と心のなかで繰り返し、繰り返し、問い続けているような気がします。それは、その場所に何があったのか、これからがどうなってゆくのかも分からないけれど、生きていくことへの決意がこめられた唸り声のような気がします。
何かを受け取った感じ
上映が終わって会場が明るくなった瞬間に、一つ席をあけて隣に座っていた年配の女性が、横を向いて私に、「すごいね!」と言いました。その人は、映像のなかの佐藤さんの声につき動かされて、思わず声が出てきたのだと思います。でもそれは、独り言ではなく、その場所で一緒に映像を見た人と何かを確認したかったような気がしましす。上映室の映像のなかには、40分、60分をこえ、120分のものもありました。私は、見ているうちに気が遠くなり、椅子に深く沈みこみそうになりました。隣の女性は、そんな私にさりげなく飴を手渡し、「私も喉が痛くて」、と相手に気を使わせない言葉を添えました。
考えるテーブル「シネマてつがくカフェ」に座ってみる
東日本大震災をメディアをとおしてしか知らない人間が仙台で、上映会の映像について語り合う「シネマてつがくカフェ」に行って見ることに少し抵抗がありました。「見学」というその姿勢が、批判されるような気がしました。でも、2日めに上映された『波のした、土のうえ』(制作:小森はるか+瀬尾夏美、撮影地:岩手県陸前高田市、撮影日2012年4月~2014年9月、制作年:2014年)を観たあとは、考えるテーブルに私も座ってみたくなりました。
『海のした、土のうえ』とナレーション
この映画は、制作者の小森さんと瀬尾さんが陸前高田で出会った人々と共同してつくりあげています。制作者は、津波のよってさらわれた家や場所の痕跡を、そこに住んでいた人々と歩きます。小森さんが、その場所と時間を映像に記録し、そこからあふれる、こぼれる人々の言葉を、瀬尾さんが集めて紡ぎなおし一連の「語り」にまとめます。その書かれた語りを、もとの言葉を発した人が修正し、映像では、本人たちが朗読しています。
動画が、津波に襲われたその後も、どんどん変わる風景をとらえる一方で、そこに映る登場人物が読み直すナレーションは、一定のトーンを保っています。その場所から失われた記憶の風景をかみしめるようにして、ことばが画面にしみこんでゆきます。朗読からは、悲しみや怒りといったひとつの表情を読み取ることは難しく、しかし感情がないのではなく、抑揚を抑えたような、でも体温のある声が響いてきます。
ナレーションを読む人の脳裏には、語り尽くせない思いがあるはずですが、シナリオを声に出して読むことによって、そこに書かれた語りをいったん受け入れていくような気がします。その人が、再び同じ文章を声にして読むことがあっても、その時に抱く風景や気持ちは、また少し違っているかもしれません。朗読の声は、記憶のかたちがかわりうる余韻を残し、それが映像を見る人にとっても、被災地を知らない人間であっても、その声に自分の別の記憶をかさねてもよいような余地を作ってくれるのではないかと思います。
固定しない記憶
てつがくカフェでは、ファシリテーターが参加者に、映画を見て思ったことを何でも言ってみてください、と呼びかけました。私は自分のノートに、「波のした、土のうえ、記憶のなか」と書きました。小森さんと瀬尾さんは、この映像に登場する人々やそこに映らない人々と、長い長い時間一緒に過ごして、その揺れ動く言葉や記憶を、その時々に、そのままに受け取ろうとしてこられたのではないか。だから、記憶を固定しない声として開かれた作品をつくることができたんじゃないかなあと思いました。
「届け方を考える」
てつがくカフェで、2時間半にわたって参加者のたくさんの言葉を聞いて、また「星空と路」上映室のさまざまな映像を見て、頭のなかがはちきれそうになってホテルに戻りました。そして、翌日、もう一度smtへゆき、「3がつ11にちをわすれないためにセンター」のスタッフにお会いし、「わすれン!」の活動に関する資料をいただきました。そこでセンターの活動や上映会や映像について話し合っているときに、大切なことに気づきました。「届け方を考える」。
記憶を記録に閉じ込めず、対話を開いて連鎖させる
何かを記録に残すとき、それが動画であっても録音や写真や絵や文章であっても、何らかの形にします。そして、そこから何かを伝えようとするとき、記録を「届けるのための形」にします。『波のした、土のうえ』は、人々から受け取ったもの、学んだことの記録であり、でも人々の記憶を記録に閉じ込めずに、どのような形にしてそこに居る人や居ない人に届けるのかを心をつくして考えています。小森さん、瀬尾さんたちの営みを映像の登場人物たちやその場所に関わっている人たちもよく知っているから、作品をつくり届ける作業に巻き込まれ、そうしたいろいろな人の時間の流れがこの作品には入り込んでいるような気がします。その営みのなかの対話を作品として開いてそれを観る人の個人の記憶や暮らしの風景に連鎖させていく。私もそんな作品をつくりたいと思いました。
「アーカイブは誰のもの?」
と問いかけるフライヤーを、「わすれン!」のスタッフからいただきました。「草アーカイブ会議 Grassroots Archive Meeting」が3月12日に開催されます。サイトには次のように説明されていました。
風景、物語、暮らし、災害、戦争など、地域での出来事について記録し伝える取り組みが各地で行われています。今回は、アーカイブ活動における記録・収集・整理・利活用の各場面で、専門家だけでなく、その地域に住むさまざまな立場の方々が一緒に関わりながら、記録物を育てているような活動を紹介し、その方法や課題を共有します。
そして、東日本大震災からこれまでに試行錯誤してきた活動を振り返りつつ、これからさらに時間が経過していく中で、誰が誰のためのアーカイブをどのように育てていくのかを来場者とともに考えます。
「記録物を育てる」という表現が印象的です。
アメリカの地方の小さなラジオ局を日本とつなぎながら発信するHarukana Showの営みも、草の根の活動とメディアについて考える『Grassroots Media Zine』の発行も、記録を作りながら開いていこうとする活動なのかなと思います。
「遠く離れた人々の心を打つ」
仙台から京都に戻ると、smtでこの映像が上映されたその日の『京都新聞』の朝刊(2016年2月28日日曜日)の第1面「天眼」に、smtの館長の鷲田清一さんが、「つぶやきから語りへ」と題して、『海のした、土のうえ』について記されていました。小森さん、瀬尾さんたちの活動をずっと見てきた鷲田さんは、この映像作品に加わった新しい方法についてこう説明しています。
人びとがつぶやく言葉を筆写し、整え、それを語り手に点検してもらったあと、本人に朗読してもらうという手法だ。….映像に被せられたこのナレーションは、映像のなかで微かに聞こえる地声のつぶやきよりも、不思議なことに、いっそうリアルに胸に響く。感情のじかの身体的表出よりも、歌や謡の型、舞の型に通したほうが、より深い情感が沁みだしてくるように、抑え整えられたつぶやきは遠く離れた人びとの心をも打つ。
仙台へ行って、「星空と路」上映室を見て、てつがくカフェに座って(小森さんや瀬尾さんの声も直接に聴いて)、「わすれン!」のスタッフとお話して、鷲田さんがいう、「遠く離れた人びと」のなかに「私」がいることを少し実感できました。