日本では台風6号、梅雨入り、Champaignも蒸し暑い
それぞれの場所でどんな季節を過ごしていますか。Champaignも週末は最高気温が30℃前後、湿度も高そう。今週は台風6号の影響でHarukana Showの番組収録の予定が変更になり、6月4日(木)にMugikoがKyotoから一人で参加しています。この日は、Kyotoを含む近畿地方では梅雨入りをしました。

Shihoさん&Akioさん夫妻にKyotoでお会いしました!
先週からOkayamaのShihoさんのトークをお届けしています。初回 (HS No. 792)は自給自足の暮らしについて。そこではShihoさんのお連れ合いのAkioさんとのエピソードがたくさんありました。なんとそのお2人にKyotoで直接にお会いすることができたのです。どうやって?そんな話から始まります。
東日本大震災の記憶、原発事故からの避難、Okayamaへの移住
そして、今週のShihoさんのトーク(5月25日収録)では、茨城県での東日本大震災の被災、東京電力福島第一原子力発電所の事故と避難、そして岡山への移住について話しています。Part1では震災当日の様子、Part2ではShihoさんの原発に対する考えと震災後の避難について、Part3では震災後の葛藤といろいろなご縁がつながって岡山へ移住するお話です。Shihoさんのライフストーリーがぎっしり詰まったトークを、下記ではMugikoが短く要約します。
Part1, 2011年3月11日東日本大震災の記憶、Kitauraでの被災
茨城県北浦での暮らしと突然の激しい揺れ
Shihoさんはもともと茨城県の出身です。Akioさんと出会った後は県内の北浦に住み、農業とそこで育てたハーブなどを使って染め物をしていました。2011年3月11日の東日本大震災前には頻繁に鳴っていたインターネットモデムの緊急地震速報が、その日に限って鳴らず、突然の強い揺れに襲われました。さらに約30分後には茨城県沖を震源とする強い余震があり、Shihoさんの自宅も長時間、強く「ぐにゃんぐにゃん」に揺れました。
「第1章東日本大震災の概要」 茨城県『東日本大震災の記録誌』平成25年3月
いわき市への引越し直前
実はShihoさん一家は、1週間後に福島県いわき市の浜通りに引っ越す予定で、台所以外の荷造りもだいたい終えていました。食器が割れ、作りかけの青唐辛子の入ったタバスコの瓶が落ちて、強烈な酸味の刺激臭が広がりました。Shihoさんは立っていることができず声も出ない状態でした。Akioさんは阪神淡路大震災(1995年1月17日)も経験していて、Shihoさんよりは冷静に、外で車が飛び跳ね杉の木がしなり黄色い花粉が一面に舞い飛ぶ様子を「すげぇ〜」と見ていました。
周辺地域の液状化、橋の崩落
北浦は泥炭地であり住まいの周辺は液状化し、近所の橋の一部は車ごと落ちました。Shihoさんは、段差やひび割れする道路を通って保育園へ子供を迎えに行きました。園児たちは泣き叫び、新築だった保育園の基礎のコンクリートにもひびが入っていました。
Part2, 東京電力福島第一原子力発電所事故、事前の備え、西への避難
原発への危機感と「てのひらまつり」
Shihoさんは震災以前から、『放射能で首都圏消滅』(食品と暮らしの安全基金、小長谷稔、三五館 2006年発行)を読んだり、原発の設計士の友人から話を聞いたりして、原発の危険性について深く考えていました。日本のような活断層が多い場所に原発を置くことの構造的な欠陥や、事故のリスクが隠蔽される体制に対して疑問を抱いていました。またShihoさんが「言い出しっぺ」になって「てのひらまつり」という平和活動のイベントを2006年から埼玉で開催してきました。そこでも原発反対を掲げ、子どもたちの未来を守るために地球にこれ以上の負荷をかけたくないという強い思いをいだいていました。

原発事故についての知人からの連絡、ラジオからの情報、即座の避難
震災直後、知人から「原発の冷却水ポンプが機能していないから逃げろ」という連絡を受け、Shihoさんたちは避難の準備を始めていました。震災についてのニュースは、当時はラジオから得ていました。福島の原発が爆発したというニュースを知ったのは、友人宅のお風呂に入れてもらうために千葉へ向かう時でした。Shihoさんたちは即座にその場を離れる決断をしました。
*茨城県『東日本大震災の記録〜原子力災害編~』平成26年3月
ガソリンの10リットル制限、西へ西への移動
Shihoさんたちはキャンプをよくするので、普段から車にはテントや水などを常備していました。政府が人々の移動に制限をかけるのではないかとShihoさんは心配していましたが、ガソリンの10リットル制限が実施されました。Shihoさんたちは多少のガソリンを備えていたので、車でとにかく西へ西へと向かいました。高速道路では全国から自衛隊の特殊車両が福島へ向かっていました。
Part3, ご 縁に導かれ岡山へ、流れに乗りながら築く暮らし
安定ヨウ素剤の常備、甲状腺被曝の低減
放射性物質が子どもの甲状腺に取り込まれるのを防ぐため、「てのひらまつり」の活動時から常備していたヨウ素剤を子どもに飲ませました。Shihoさんたちのように避難している人たちを見かけるとヨウ素剤を手渡しました。行政からヨウ素剤が配布されたのは、原発事故から数日が過ぎてからでした。
*茨城県「安定ヨウ素剤」 *茨城県『原子力ハンドブック2025年度版』
大阪を経て、縁に導かれた岡山での再会
Shihoさんたちは、まずはAkioさんの実家がある大阪へ避難しました。しかしテレビで小出裕章さんが今回の事故が「チェルノブイリ以上だ」と発言しているのを聞き、さらに西へ逃げることを決意します。友人が自然食品店を営む岡山県へ向かったところ、そこで偶然に出会った子ども連れの女性から、屋根を直したばかりの古民家の完成披露パーティーに誘われました。そこでさらに不思議な出会いが待っていました。埼玉の「てのひらまつり」に岡山からわざわざ参加してくれた老夫婦と再会したのです。
岡山経済新聞「備前市のキャンプ場で『てのひらまつり』『子どもたちの笑顔』テーマに」2016.08.28
のびのびした自由な子どもたち、明るい雑木林、「波に乗る」感覚
その集いに来ていた現地の子どもたちは障子に穴をあけて遊ぶなどのびのびしていて、また、周辺も杉やヒノキの暗い植林地ではなく、明るい雑木林が広がっていました。様々な植物が生える染料の宝庫であり、そういう点でも岡山に魅了されました。その後も日本海側を含め各地を回りましたが、最終的には岡山への移住を決断します。勤めではなくフリーランスとして生活してきたShihoさんは、人からの好意や出来事のタイミングを逃さない「波に乗る」感覚を大切にしています。震災と避難、一連の不思議な出会いも、振り返ってみればある大きな流れだったのかもしれないと思います。
震災後の葛藤と持病の悪化、移住と地域との繋がり
でも震災の当時はショックが強く、Shihoさんは原発事故についても「自分にもっとできることがあったのではないか」という自責の念にとらわれ、持病の自己免疫疾患が悪化します。その入院中に現在の住まいが決まりました。Shihoさんは「ポツンと一軒家」のような人里離れた場所を想像していたのですが、実際には周囲に4軒の家がありました。その隣人たちが個性的で、それぞれに整体師、歯科技工士などの資格を持ちつつ無農薬農業などを営んでいます。Shihoさんたちは隣人から罠猟や養蜂を学び、お野菜をいただいたりもしています。
「一家に一人百姓」
Shihoさんは移住者へのアドバイスとして、「田んぼをやること」を勧めています。田んぼの作業をきっかけに、普段は口数の少ない地元のお年寄りともコミュニケーションを取ることができ、「一家に一人百姓」がいれば米を食し、また地域とつながり、支え合いながら生きていけます。来週に続く。まとめ-Mugi
◼️Little Dragon「Where You Belong」◼️Little Dragon「Lover Chanting」*
今週は、Shihoさんに選曲していただきました。「リトル・ドラゴンと言うずっと大好きなスウェーデンのバンドです!ボーカルはユキミ・ナガノと言う日系の女性で、最高のバンド!」-Shiho
