No.418, March22, 2019,Special Interview with Peter Jenner(1) London Free School, Pink Floyd

空気がやわらかく、春になってきました

U-Cも寒さが緩み、空気がやわらかく感じられるようになりました。3 月22日と29日は、時間を90分に拡大してお届けしています。

空気がやわらかくなってきました@Hazen Bridge, Mohamet, IL, March18, 2019

春のスペシャル番組第2弾  Peter Jennerのインタビュー(前半)

春のスペシャル番組第2弾は、ロンドン在住の音楽プロデューサー、Peter Jenner(1943年生まれ)さんへのインタビューを2回に分けてお届けします。今日のトークでは、 1960年代半ばのLondonのアンダーグランド・カルチャー、London Free SchoolとPink Floydについてです。Peterのトークは英語ですが、その内容をMugikoが日本語で要約し、Pink Floydの熱烈なファンであるTateishiさんがコメントをしています。先週のJoe Boydへのインタビューも参照ください(HS Podcast No.417)

HS Podcast No418-1, March22, 2019:インタビューの経緯、Peterの自己紹介

HS Podcast No418-2, March22, 2019:Part1, London Free Schoolとは?

HS Podcast No.418-3, March22, 2019:Part2, All Saint Church HallでのGig

HS Podcast No.418-4, March22, 2019:Part3, Pink Floydをサイケデリックに演出

Peter Jennerの英語トークの音源に、日本語での要約とTateishiからのコメントを添えて、下記に掲載します。お名前は、2回め以降は「さん」なしで記載しています。

2時間のインタビューと、1960年代のドキュメント

2019年1月23日、London市内で初めてPeter Jennerに会い、Harukana Showへのインタビューを申し込みました(取材の経緯と「声のサイン」については、Blogに記しています)。1月29日にSincere Mangementの事務所を訪問し、Peterの話を、2時間にわたって収録しました。この時、娘のMushiさんが、1960年代当時のPeterの活動を知るドキュメントの箱を用意してくれました。翌日、事務所を再訪し、貴重な資料を閲覧させていただきました。また、今回のHarukana Showでお届けした音楽は、Mushiに選んでいただきました。

Self-Introduction by Peter Jenner

日本への思い入れ

Peterは、日本に深い思い入れがあります。亡くなった妻のSumi Nishihata の 両親は日本からカナダに移住し、Sumi が生まれました。第2次世界大戦時には、日本人移民の強制収容所で過ごしたこともあります。1966年にSumiがLondonを訪問した時に、Peterと知り合い、間もなく結婚しました。彼女は Peterとともに長年、音楽業界の仕事に携わりました。2人は、日本も訪れました。

Harukana Showへの取材、選曲、アーカイブの閲覧など、PeterさんとMushiさんからの暖かいサポートは、Sumiさんと日本への想いも込められていると思います。3人に心から、感謝いたします。Mugi

■Duke Ellington “Take The ‘A’ Train”, Peter was a huge music fan as a child and especially found jazz captivating.  Duke Ellington was a favorite.by Mushi

Part1(12:41), How do you remember about London Free School?

社会的であり政治的な活動、使命感

「LFSとは?」という素朴な質問に対して、Peter Jennerは、「社会的であり政治的な」活動と述べています。Peterは、左翼系の政治家の家系に生まれ育ち、「政治」が身近にあり、社会問題を解決してゆくという使命感もありました。Peterの世代は、戦争へゆかず、無料で高等教育を受け、比較的安定した雇用、社会保障を受けることができる、時代の恩恵を受けていましたが、その一方で、たとえば、Notting Hillでは、西インド諸島などの移民が多く、多様な人々が集まり、生活環境は劣悪でした。大学で経済学の講師であるPeterにとっては、LFSは、社会を変えていくひとつの実践の場でもありました。

1960年代のLondonのアンダーグラウンド・シーン

Peterはまた、ジャズを中心とした音楽のファンでもあり、ケンブリッジ大学出身のネットワークなどを通して、60 年代半ばのLondonのアバンギャルドな音楽やカルチャーの動きにのめり込んでゆきます。LFSには、音楽やアート系の活動を展開する若者が集まっていました。そこでの出会いが刺激となって、多様な活動が生まれます。

■AMM”After Rapidly Circling the Plaza“from AMM Music 1966:Peter signed this band AMM to his record label around the same time he first encountered the Pink Floyd(Mushi)

※ジェナーさんやホッピーたちは、一緒にDNAという名前のプロダクション会社を設立し、AMMという名前のフリー・ジャズのグループのレコードを制作しています。ちなみにAMMのレコーディング時における音楽やノイズの処理の仕方をシド・バレットが見たことがあり、それに強い影響を覚えたとのことです。(マーク・ブレイクの著書『ピンク・フロイドの狂気』(日本語版, 2009, P-vineBooks,2009年より)

※ピンクフロイドのメンバーや彼らを支えた人々もケンブリッジの街の出身で、そうした人的ネットワークがあらゆる面で強い影響を及ぼしていたことがうかがえます。by Tateishi

Part2 (8:40), The Gig at the All Saints Church Hall, Blackhill Enterprises

Church HallでLFSのPink FloydらのGig、Blackhill Enterprises設立

LFSは、ニューズレターの発行やNotting Hill Festivalなどのイベントを開催し、資金を使い果たします。Peterは、教会が、さまざまなイベントが行われ人が集まる社会的な場所であることを、牧師であった父の活動を通して子供の頃から見てきました。そこで、LFSの活動資金を捻出するために、1966年秋に、Notting HillのAll Saints Church Hallで音楽ライブを何回か開催します。そこで人気を集めたのがPink Floydです。Peterは、長年の友人でありLFSにも関わっていたAndrew KingとともにBlackhill Enterprises を立ち上げ、Pink Floydの音楽活動のマネージメントを始めます。HoppyとJoeが12月に開いたUFO Clubでも、Pink Floydはしばしば演奏することになります。

Track3: Love “My Little Red Book”, Track4: Pink Floyd “Interstellar Overdrive” Peter heard the Love “My Little Red Book” song and sang the catchy hook in the song to Syd Barrett from the Pink Floyd. Syd then wrote “Interstellar Overdrive” with a very similar hook in the song. by Mushi

※ジョー・ボイドさんがElektraで働いていたことから、上司のジャック・ホルツマンを連れてきてピンク・フロイドと契約させようとしたけれども、どうにも気に入らなかったらしく、そのことでジェナーさんのインタビューのなかでも「彼がピンク・フロイドと契約しなかったことを死ぬときに後悔したはずだ」と言っています。そうしたすったもんだの末にEMIがピンク・フロイドと契約することになり、かの有名なアビー・ロード・スタジオでビートルズが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を作っていた最中の隣のスタジオで、新人のピンク・フロイドがデビューアルバム『夜明けの口笛吹き』を制作することになるという、よく知られた「伝説」が展開していきます。UFO クラブの詳細は、マーク・ブレイク(2009), pp.234-135参照。byTateishi

Part3 (8:09) Pink Floyd, the avant-garde music, “Psychedelic”

前衛音楽のプロデュース、サイケデリックなシーンの演出

Peter Jennerにとって、Pink Floydはどんな印象のバンドだったのでしょうか。Perterが初めてPink Floydの演奏を聴いたのは、LondonのMarquee Clubです。誰が何をどう奏でているのかさえ分からない、不思議な即興音楽、確かにブルースの要素もあるけれど、そこに収まりきらない。PeterとKingは、Pink Floydをはじめ、前衛的な音楽のプロデュースをしていきます。その活動は、「音」だけでなく、演奏の舞台においても、奇抜で幻想的なLight Showなどを工夫し、60年代の時代に応じたサイケデリックな音楽シーンを演出し、売り出してゆきます。Peterのトークの後半は、来週のHarukana Showに続きます。(まとめMugi)

ドラッグとシド・バレット、ピーターの支援

初期のバンド、および周辺のシーンをめぐっては常にドラッグの問題が影を落としていき、フロントマンだったシド・バレットはドラッグ接種の影響から精神を病んだとされ、結果としてバンドを離れることになります。そのことがその後のバンドの方向性においても常に重大なテーマとしてのしかかってくることになりますが、その一方でピーター・ジェナーさんはシド・バレットがバンドを離れたあとでもなんとか音楽家として自立できるような手助けを続けていたことも『ピンク・フロイドの狂気』を読むとうかがえます。シドとの想い出は、ピーターさんの人生にとってもいつまでも忘れがたいものがあるのではないかと想像されます。by Tateishi

Massage from Tateishi to Peter & Mushi

■Pink Floyd “The Narrow Way: Part IIIchose by Tateishi

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