No.535, June25, 2021, テクノロジーとコミュニティ, 「知のコモンズ」の原点 with Hi-san

90’sのUIUCで知のコミュニティを垣間見る with Hi-san

今週も、Ryuta-san (Shizuoka)、Wataru-san (Kawasaki)、Mugiko (Kyoto) の3人が、Hi-san (ひ〜さん) のトーク後半を聴きながらおしゃべりしました。Hi-sanは、1993年から1995年にかけてUIUCに留学されました (当時のアメリカの様子やU-Cでの暮らしについては、HS No.534へ)。UIUCでの学びが原点となって、その12年後、長野県で図書館のお仕事に転職されます。Hi -sanが、1990年代のイリノイ大学や図書館でどんな経験をされたのか。文章にも詳しくまとめていただきました。Podacstの音声 (Part2 & 3) とともにお楽しみください。Hi-sanとのトーク収録は2021年6月4日、本日のHS No.535の番組収録は6月24日です。

Part 1, コロナ下でのオリンピック開催、市民感覚と距離感  with Wataru&Ryuta

Part2, ICT最先端を駆使した図書館、検索機能とボランティの手入力 with Hi-san

Part3, オープンな知のコミュニティ作り with Hi-san

テクノロジーとコミュニティ

HS No.534からの続き)そんなわけで、特に何か特別なことを期待してUIUCに行ったわけではないのですが、ケースメソッドを基本としたディスカッション、図書館の資料へのアクセスやITなど情報環境など、日本の学部で学んだ’70年代末-80年代初とは大違いな学び方、学びの環境に感銘しました。生まれて初めて「おべんきょー、タノシイ!」と思いましたね。

検索

メインライブラリーに集合してグループワークをよくやりましたが、「Sheeee!」なんて言われたことはなかった。日本でも大学図書館はようやく図書館の空間をリノベして「ラーニングコモンズ」なんて名前をつけてそうした環境が作られましたけれど、公共図書館は相変わらずかもしれません。

そして何よりも、資料へのアクセスの進化に目を見張りました。初めてOPAC (Online Public Access Catalog) なる仕組みに触れたのです。しかも、当時のUIUCのOPACはビジュアルに検索をサポートしていたのです。探したいもののキーワードを入力するとベン図が現れ、and/or検索どころかnot 検索までできた。

大学で法律を勉強していた’83年頃は、図書館で資料を探すといえば、ずらりと並んだ蔵書目録カードボックスから書名、著者名、件名(主題)などを頼りに本を探していました。この方法では、探索する分野についての一定の知識がなければ書名も著者も件名もとっかかりがないわけで、本を探すことすら一つの技能といっても良かったでしょう。とりあえず辞典を引くか、読んだ本の脚注や引用や索引を頼りに参考文献を探していかねばならなかった。いわばいもづる式に知の世界を広げていくのがその頃の正統な知のプロセスだったのです。フリーワード検索して資料候補リストが出てくるなんて、今や当たり前のことがすごい驚きだったわけです。

日本でも80年代半ばから書誌情報のデジタル化とOPACの提供が始まりましたが、その頃は会社で仕事に追われていて図書館など行くことはありませんでしたし、当時のOPACはあくまで図書館のオンサイトでの蔵書検索でした。インターネットはまだ存在していなかったのです。

Internet!

UIUCに行くにあたって、中古のMacLCIIIを40万円(それでも新品の半額以下でしたが)で手に入れて持って行きました。会社に勤め始めた’83年頃からドキュメンテーションのIT化が始まりましたから、ワードプロセッシングや表計算、あるいはテキストや数値、画像を統合的に編集するソフトを仕事で使うことには慣れ親しんでいましたが、パーソナルにコンピューターを手にするのはその時が初めてだったのです。

そうした’80年代のDTP (Desk Top Publishing) の時代を経験し、’90年にはスティーブ・ジョブズがAppleを離れて作ったNEXTという会社のワークステーションを使い、LANでつながれたコミュニケーションワークも僕の日常となっていました。情報テクノロジーが個人の力を拡張、エンパワーすることにワクワクしながら編集表現していく力を手にし、表現するプロセス、考えるプロセス、働き方が大きく変化することを体験していたのです。

でも、’93年にイリノイに到着した時には、情報の世界、知の世界は次のステージに進もうとしていました。僕がアーバナ-シャンペーンに行った1993年はインターネットの一般への拡大の始まりの年と言ってもいいと思います。

World Wide Web (WWW) の利用が開放され、UIUC NCSA (米国立スーパーコンピュータ応用研究所) がwebブラウザのMOSAICをリリースした年です。検索エンジンはまだなく、アドレスを入力してwebページを見に行くというのが、大学のシステム利用のオリエンテーションで課題として出されたりしました。電子メールを送受信もしたこともなく、インターネットって何に使うのかわからず、ウェブブラウザなんて見たことないというのが当時の一般的な状況だったのです。

UIUCのコンピュータサイエンスはアメリカでも先進的でした。MOSAICに先立つ10年前、’88年にリリースされた最初のポピュラーな電子メールソフトEudoraもUIUCの卒業生が作ったもの。また、日本人留学生の先輩たちから必ず聞かされる話題として、’68年に公開されたスタンリー・キューブリックのSF映画「2001年宇宙の旅 – 2001: A Space Odyssey」に登場する宇宙船のAI、HALのエピソードがありました。叛乱を起こし、人を殺め始めたHALは記憶装置を外され初期化され、記憶を失っていきます。その最後に”My name is HAL. I became operational on [January 12, 1992], at the Innovative Systems Lab in Urbana, Illinois…”と話すというシーンですね。

その後、検索エンジンサービスがつくられ、電子メールやインターネットが爆発的に普及したのは2000年代に入ってから。Yahoo!が’95、Googleが’98に検索エンジンをリリースしてからの話です。というわけで、僕にとっても、世界中の人にとっても”ネットワークコミュニケーション”の時代のある部分はアーバナ-シャンペーンから始まったといっても言い過ぎではないでしょう。そんな時に、アーバナ-シャンペーンに行ったというのは、今になって思えば、その後の僕の図書館の世界への転身にとっては運命的なことだったかもしれません。

オープンな知のコミュニティ

そんな、ICT (Information Communication Technology:情報通信技術) の次の進歩の波を感じつつ、より感銘を受けたのが、テクノロジーの可能性を最大限に使いながら、知的生産の基盤を整えている「コミュニティ」の存在です。前述した図書館での検索体験の続きになります。ビジネスのレポートを書くためにたくさんの本や雑誌を探し、読まねばならなかったのです。ところが、驚いたことに、図書館での雑誌検索の結果には、タイトル、雑誌の巻号、発行年月日、著者、主題という通常の書誌情報に加えて、目次どころか各論考・記事のサマリーが表示されたのでした!読みたい資料を書架から持ってこずとも、記事全文を読まなくても、「探している情報のありかに”あたり”がつけられる」ということは、レポート作成のための資料探索に何と役に立ったことでしょうか。

「こうした情報は項目は誰が作成しているの?」と図書館の人に聞くと「研究者や大学院生が自分たちで作っているのだ」というではありませんか。自分の研究活動の中で、それに留まらずに、みんながみんなの共有財産としてオープンな情報、知の基盤を整えることをそれぞれ主体的に行なっていること、そしてそれを蓄積する機能や場が存在することに感銘を受けました。特定の誰かが創る、あるいはコントロールするのではなく、みんなが参画し、創造し、みんなの知の基盤が整っていくというのは、まさにインターネットそのもののあり方でもありますし、ネットワークコミュニケーション時代の情報と情報、情報と人、人と人のつながり方の根っこにある考え方なのではないでしょうか。

2001年にインターネット辞典wikipedia英語版が開設された時にも、誰でも参画でき、成果物もプロセスも含めオープンな様子を見て、UIUCで”知のコミュニティ”を垣間見ていたことで、そうした人のつながりがそこにあるのだということを強く感じました。この12年後に公共図書館の世界に身を置くことになるわけですが、アーバナ-シャンペーンで見た知的創造の基盤としてそこにあるコミュニティの存在というのは、僕にとっての、今の時代に不可欠な「パブリック」のあり方のイメージとなっていると言えるでしょう。

公共図書館で目指したのは、地域で「共に知り、共に創る」「知のコモンズ(共有地)」としてのライブラリーだったのです。デジタルでオープンな、誰でもアクセスし、参画できるネットワークコミュニケーションの時代だからこその「公共性」を、リアルな場で形にし、それぞれの人が生き生きと暮らせたらどんなにいいだろうか、というのが僕の今も変わらぬ思いです。Hi-san

UCIMCはメディアとテクノとアートの共有活動

Hi-sanとのトークは、90年代から現在のU-Cを映し出しているようで、Mugikoにはとても興味深かったです。番組でも述べましたが、2000年に設立されたUCIMCが掲げてきたコンセプトは、Hi-sanが述べられている「地域で『共に知り、共に創る』『知のコモンズ(共有地)』」のまさに実践です。UIUCが情報通信技術の最先端であるとしたら、UCIMCはむしろ、情報の弱者となりうる人々を対象に、PCがなくても、自宅でインターネットを利用できなくても、創作活動など考えもしなかった人々でも、メディアと技術を場所を共有し、誰でも表現し主張できる社会にしていこうとする活動を様々に展開してきました。

メディアを使って人が人をつなぐ

MugikoがHarukana Showを始めたのも、WRFUのメンバーが「あなたも番組担当できますよ、日本語でもいいです」と声をかけてくれたからです。実際に番組を開始すると、WRFUやUCIMCの他のグループのメンバーも惜しまず技術面のサポートをしてくれました。番組制作をとおしていろいろな出会いが生まれ、今日まで535回の番組を重ね、こうしてHi-sanをゲストにお迎えすることができました。Hi -sanのトークについて、来週もまたRyuta-san、Wataru-sanとMugikoの3人で話題にしていきます。

U-Cでは、UCIMCの他にも、住民を巻き込んだ様々なメディア実践の活動が長年行われています(WEFT90.1FM, The Illinois Radio Reader, Urbana Public TV, etc.)。U-Cの公共図書館(Urbana Free Library, Champaign Public Library)も、地域の人々が集まる公共の場所として多様な活動を展開してきました。

UIUCの図書カタログキャビネットの行方

UIUCの図書館での役割を終え撤去されたCard catalogue cabinetsの行方も興味深いです。Ryutaさんが送ってくださった上の写真にあるようなキャビネットが、2013年3月、Tomさんが勤務するPACA (Preservation and Conservation Association FB) に大量に届きました。PACAが事前に入手希望者を募ったところ200件近い申し込みがあり、図書カードのキャビネットは$100ほどの値段であっという間に住民に引き取られたそうです。

PACA:地域におけるモノと知と人のつながりの循環

PACAの活動では、地域の歴史的建造物の保存をサポートしたり、解体される建造物の建材や部品を回収し地域の人々が再利用できるように保管し安価で売り出します。それはモノとしてのリユースだけでなく、そこに付随する歴史や知恵も共有する活動です。自宅の古い家具、ドアノブが壊れたのでそれにかわるものを探しにきたお客さんがいれば、別の部品をすすめる前に元の部品を持ってきてもらい修理する。モノへの知識を共有し愛着を育てる。そのお客さんが、別の機会には、例えば引越し先の住居に入れられず破棄することになった古い家具を捨てずにPACAに提供してくれる。そんな長い目での交換をとおして、地域の人々のネットワークも広がっていきます。

Hi-sanのお話のおかげで、U-Cの現在の草の根活動が地域のなかで長年、育まれてきたことを改めて考えることができました。90年代のUIUCでの経験が、その後、Hi-sanの日本での図書館活動の中でどのように展開されるのか。続きのお話をいつか伺えることを、とても楽しみにしています。Mugi

■Shonen knife”Top of the World“■Oasis”Wonderwall

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