寒さ厳しい冬至
放送日の2023年12月22日は冬至日本各地は雪が降り、NiigataのYoshiさんから届いた写真では、こんなにつもっています。Champaignは、今週も穏やかなお天気のようですね。
列をなすお店
Kyotoは、寒くなってもKyotoは観光客でにぎわい、みたらし団子屋さん、小さな中華料理屋さんなどの前に、夜の10時が過ぎても人が並んでいます。Champaing在住のTomさんに、U-Cでは行列ができるようなお店がある?と尋ねると、「そういえば先月、Tatooショップの前に人が並んでいたよ」と。
今週の番組収録は12月21日(木)、RyutaさんはTokyoから、MugikoはKyotoから出演。Part1では、Yoshiさんから送っていただいた屋内に吊るされた干し柿の写真を見ながら乾物についてのおしゃべり。Part 2& 3は、先週に続き、Yoshiさんのトーク後半です。前半の「或る日朝友好運動活動家との出会い」は、HS No. 664をご覧ください。
Part1, 行列ができるお店、乾物なお話
この干し柿の写真を見ながら、Mugikoは、子供の頃の冬の光景を思い出しました。各家では、お漬物の用に、大根や白菜を軒下に干していました。Ryutaさんも、Mugikoも、今でも出汁は、昆布、椎茸、雑魚、鰹節を使ってだします。お正月にはKyotoだと棒鱈をよく食べます。カンカンに乾いた鱈を水につけて戻すには、一週間はかかります。乾物は貴重な保存食であり、暮らしの知恵がつまっています。アメリカの各地には、どんな乾物がありますか?
Part2, 託された日記、主観が入ってもいい、資料との対話 -Yoshi, Mugi
Part3, 語られなかった記録と歴史、記憶と向き合う動機-Yoshi, Ryuta
Part2とPart3のYoshiさんのお話の内容をMugikoがまとめます。
個人の日記やインタビューをどう扱うか-Yoshi
Yoshiさんの専門分野は歴史学、朝鮮現代史を専攻し、日本と朝鮮との関係、とくに植民地支配や植民地主義に関するテーマを追究しています。Yoshiさんは学生時代に日本朝鮮研究所元事務局長の木元賢輔さん(1932-2005)と出会い、2002年から2005年にかけて10回のインタビューを重ねました。木元さんが癌の宣告を受けてからは、Yoshiさんに自分史を語り始めました(先週までのお話)。
また、木元さんは、Yoshiさんに30冊以上の日記も託されました。Yoshiさんのこれまでの研究は、公文書などを扱ってきました。こうした個人の記憶や記録をどのように扱い、研究をすすめていくのか。悩みながら方法を模索しています。
インタビューアーの感じたこと、考えたことが入ってもいい
木元さんが亡くなった2005年は、日韓の外交文書が大量に公開されました。その資料の整理がひと段落して、ようやく、もう一度、木元さんのインタビューや日記の記録に向き合う時間を作ることができました。しかし、その人の個人の思いや、ある種の「自己受容」として書かれた日記を、「資料」としてどのように扱っていいのか、まとめていいのか、手探りですすめてきました。ある研究会で、「インタビューした人間の感じたこと、考えたこと、主観が入ってもいい」と言われて、Yoshiさんは気持ちが楽になりました。
さまざまな「史料」との対話
公文書などを使った研究は、内容が正確であるかどうかが大切ですが、日記に記されているような個人的な体験の一つひとつの事実を確認することは難しい。それでも、文書であっても、インタビュー記録や日記も、歴史研究者はさまざまな資料と「対話」をしているのだとYoshiさんは感じます。対話しながら、書いたものにたいして「問い」を立て、資料から答えをもらって、また問を立てる。そうした対話を繰り返している。
論文によってテーマを絞る、まとめきれない多様なテーマ
木元さんから託された日記やインタビューの内容は多岐にわたりますが、この秋に掲載された雑誌の論文*は、原稿用紙40枚の量に限定されていました。このため、木元さんにとっての「朝鮮」というキーワードをもとに、出身地、朝鮮の思い出、友人たちとの関係、共産党の運動の中で培われた理念などへの思いなどを、論文としてできるだけコンパクトにまとめました。まだまだ扱いたいテーマがあるけれど、一つの論文では、なかなか書ききれません。本になるとしたら、どのような形になりうるかを頭の片隅において取り組んでいきたい、とYoshiさんは話しておられました(まとめMugi)。
*吉澤文寿「或る日朝友好運動活動家の軌跡 : 日本朝鮮研究所事務局長の日記およびインタビュー記録を通して」『在日朝鮮人史研究』在日朝鮮人運動史研究会編(53), 95-110, 2023-10, 緑蔭書房)
「産婆さん」へのインタビュー-Mugi
Yoshiさんのトークを聞いて、私自身の国内外での体験を思い出しました。Mugikoは文化人類学を専攻し、大学院生の頃は、かつての自宅分娩の時代にお産を介助していた助産職についての調査をしていました。地域で「産婆さん」と呼ばれ活躍していた資格を持った元助産師さんたちを訪ねて取材をしていました。その中で、1926年生まれの竹島みいさんのライフストリーを伺ううちに、最初は助産職としての仕事についての話が、みいさんの結婚や夫の急死や、さまざまな人生の局面についても語りは広がっていきました。当時の個人的な手紙や助産に使っていた道具なども見せてもらいました。みいさんは、話しているうちに蓋をしていた記憶がどんどん溢れだし、ある冬、それを2冊のノートに記して、私に託されました。(西川麦子『ある近代産婆の物語ー能登・竹島みいの語りより』桂書房、1997)
対話と関係が生み出す物語と記憶のかたち-Mugi
インタビューやさまざまな資料も、人との出会いとそこでの対話と関係のなかで育まれるものだなあと思います。フィールドワークの現場を、他のさまざまな資料と組み合わせることで、視点が変わったり、背景を学ぶことができたり、多角的な解釈が可能となります。また、どんな読者を想定するかによって、伝え方も変わってきます。それは、Harukana Showも同じです。その回の参加者とともにシナリオのないトークが生まれ、またリスナーが存在することで伝え方も豊かになります。HSに参加してくださって、聞いてくださって、ありがとうございます、と毎回思います。-Mugi
Ryutaさんのお父さんも京城生まれ、語られなかった思い出
Ryutaの父も、木元さんと同様、朝鮮京城府の生まれです。木元さんよりは年下で、小学生になるころに一家で鹿児島に引き揚げてきました。その後は高校まで九州で過ごしたあと、京都の大学に進学しました。ただ、共通点と呼べそうなものはそこまでで、大学卒業後は東京で就職し、サラリーマンとして定年まで勤め、朝鮮、韓国とはほぼ無縁の生活を送りました。Ryutaを含め、近い家族に京城時代のことを話すことも、ほとんどありませんでした。
木元さんが歩んだ道と、Ryutaさんの父が選んだ生き方の分岐点
Ryutaとしても、東アジアのトランスナショナルな歴史に関心を持つようになったのはどちらかというとアメリカの大学院に進学してからだったので、植民地朝鮮での生活について父と話す機会があまりなかった、というのはあります。それでも、Yoshiさんの論文を読んだり、お話しを聞いたりする中で、木元さんが歩まれたような道と、父が選んで生きたような道とが、どこで、どういうきっかけで分かれることになったのかや、ライフヒストリーが残る(ライフヒストリーを残す)人と残らない(残さない)人がいることの学術の方法論的な意味を、ふと考えてしまいました。- Ryuta
木元さんと在日朝鮮、中国人の友人たちとの信頼関係
Ryutaさんのお話を聞いて、逆に、木元さんの場合はなぜ、日本の植民地時代の京城出身であることを語り、また、生涯を通して日朝・日中関係に関する活動に関わられただろうと思いました。Yoshiさんの論文を読んでいると、木元さんは、朝鮮や中国出身の友人たちがいて信頼をえていたことが、大きなきっかけになったのではないかなと、想像しました。-Mugi
Yoshiさんという聞き手をえて深まった木元さんの想い
また、Yoshiさんのお話では、木元さんは最後に、Yoshiさんに自分の骨をソウルに持っていってほしいと依頼されたそうです。木元さんにとっての故郷としてのソウルへの想いが、Yoshiさんという若い世代の聞き手と出会い、自分のライフストリーを語るなかで、より深まっていったのではないかと思います。-Mugi
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