「ねえちゃん、Podcastの順番、違ってる〜」とリクオが電話してくれました。出先から戻り、あわててパソコンを開き修正、すみません、ありがとう。
日米の“ローカル”を海を越えてつなぐHarukana Showでは、日本全国をライブにわまるローリングピアノマン、リクオの話を、毎回、とても楽しみにしています。(でも、まさか、アメリカのコミュニティラジオ番組に、きょうだいで日本語トークをすることになるとは、人生の、なかなかの珍事ですが)。打ち合わせの時間がなくても、リクオとのトークは、たいていはスムースにはずみます。
ところが、
今回のリクオとのおしゃべりは、リクオの言葉を受けとるごとに、私がぎこちなく立ち止まり、言葉をつなぐことも流すこともできず、泥のなかにずぼっと足が入り込んだようでした。
「ごめん、きょうは、うまくトークできない。」
テーマが突飛だったわけではありません。インディーズのミュージシャンの目にうつる、日本の草の根のメディアと表現についての話でした。リクオの話を聞きながら、イリノイのコミュニティラジオ(メディア)の風景や、それまで10年間、ロンドンに通って多くの時間を過ごした地域の人々や、1960年代のコミュニティの運動やアングラな文化の(元)活動家たちの話を次々と思い出し、私の頭のなかが混乱したのです。
そうかあ、私は、いろいろな場所を移動しながら、グローカルな「草の根」の活動とメディアとの関係を眺めたり擦ったり経験してきたんだなあ、と思います。人と人、人と場所、ことばのつながりに、悩みながら。
文章は、加筆という修正ができますが、録音はなかなかそうはいきません。1時間あまりのトークを、ひたすら削って編集しました。考え込むホストの声をどんどんカットし、リクオの言葉を掬いだしつないでゆくと、話の筋が、ずっとよく見えてきました(録音を彫刻しているみたいでした)。
Harukana Show Podcast No.120-3は、そういうわけで、ラジオ・トークというより、ちょっと茶の間できょうだいトークの雰囲気を残しております。そんな生な感じを、あしからず、お楽しみください。今回もまた(毎回ですが)、戸惑いゆらぐホストです。Mugiko