孤独でも不安なく他人とも居られる社会
鷲田清一さんの「アローン・トゥゲザー」(京都新聞10月6日(日)朝刊一面、天眼)は、伊藤亜沙さんの文章の引用から始まっています。「漏れちゃう。のは本当にだめなことなのだろうか?」(未来の人類研究センター編『RITA MAGAZINEテクノロジーに利他はあるのか』ミシマ社、2024,p.13)。本屋さん(近所のホホホ座)に走り、RITA MAGAZINEを一気に読みました。面白い!でも、鷲田さんや伊藤さんたちの言葉から漏れ出る意味を、アメリカのラジオ番組で伝えるのは難しそう。収録は、2024年10月17日、RyutaさんはTokyoからMugikoはKyotoからの出演です。
「漏れる」は英語で”leak”?
Part1ではKiyokazuさん*のエッセイを抜粋して紹介しました。Part2では、RITA MAGAZINEの伊藤亜沙さんの冒頭の言葉を紹介、その内容をMugikoは、Champaign在住のTomさんに伝えようとしますが、「漏れる」をどう英訳したらよいか悩みます。そもそも「漏れ方」や自他の関わり方、感じ方は社会や文化によっても多様、さらにはICT(情報通信技術)やAIの展開によっても変わってくるけれど(Part3)、鷲田さんのエッセイで意味する「漏れる社会」を英語で言うならば、、、Ryutaさんがたどりついた言葉とは(Part4)。Podcastをお楽しみください。
*鷲田清一さんには、2013年にHarukana Showにご出演いただきました。*No.116 June14, 2013 「ラジカルラジオ」とのコラボ!with Kiyokazu-san.・No.117 June21, 2013 「壁がない」〜市民が主体の記録、表現装置 with Kiyokazu-san.
Part1, 鷲田清一さんのエッセイ、木漏れ日社会でアローン・トゥゲザー
Part2,伊藤亜沙さん「漏れることの価値もある」。Tomさんの感想
漏洩の危険性、漏れてふれる社会の豊さ
漏電、雨漏り、情報の漏洩、放射性物質の漏れなど、「漏れる」は非常事態をもたら危険を孕んでいます。その一方で、暮らしや自然の中では、雨水が岩肌がら漏れだし、木漏れ日が降り注ぎ、暮らしの中で他人の気配を感じたり漏れ聞いたりしているから、一人でも完全に閉じるのではなく、意図せず触れたり縁をもらったり巻き込まれたりします。そうした漏れる社会の面倒くささもふくめた「ふくよかさ」は大事なのではないか。
といった内容を、鷲田さんが古いジャズの名曲を借りて「アローン・トゥゲザー」と表現し、伊藤さんたちが、「工学=制御」と考えられている分野(ロボットやAIなど)、あるいは法律の専門家との対話をとおして、「漏れることの」価値の再考をわかりやすく問いかけています。
Mugikoは、Kyotoの路地奥に暮らしています。近所の物音や気配がいつでも、耳に目に入ります。否応なしに情報や気配が漏れる状態や回覧板が頻繁に回ってくるのも、生存確認の仕組みかなと思います。
Part3, 京都の路地奥の「気配」、30年前のバングラデシュ農村の口コミ文化
Part4, Ryutaさん曰く、not be over-sterilized(滅菌されすぎない)
ビックビジネスに呑み込まれた近所の雑貨屋さん、顔馴染み関係-Tomさん
この話題を、Champaignで生まれ育ったTomさんに説明すると、こんなコメントが返ってきました。日本語に抄訳すると、「子供の頃、近所に雑貨屋があってそこへ買い物へゆくと、誰かと顔を合わせ、話をすることもあったなあ。日本に豆腐屋や八百屋があっただろう。でも、現代は、なんでもビッグ・ビジネスに組み込まれ、買い物は大きなショッピングモールで週に1回、どんと買い込む。近隣の人と顔合わせたりもしない。だけど、情報が漏れるのは良くないよ、それは健全なコミュニティではないな、そうでなくて、さまざまな人と情報を共有できる場があればいいね。」-Tom
漏れ聞こえる、「木漏れ日」のような社会の英訳、、、
Tomさんの話の中に、日本の豆腐屋が出てきたのは驚きました。Champaignでもかつてあった顔馴染みの近所付き合いは、大きく変わったようです。Tomさんと話していて、「漏れ聞こえる」「木漏れ日」のような社会を、leakという単語ではうまく伝えられませんでした。Ryutaさん曰く、「木漏れ日」とは日本語から英語に翻訳が難しいとされる表現の一つなんだそうです。
電話の共通ライン、しっかり漏れ聞く社会
アメリカのローカルな社会も変化してきたというTomさんの話を聞いて、番組のなかでRyutaさんがアメリカの「電話」についてふれられました。電話が普及し始めた頃、近隣(田舎だと各家が相当に離れている)の家々の電話のラインが共有されていて、ジャーン(?)と各家の電話がなると、それぞれが電話をとるが、自分への電話でないわかると、そこで電話を切る、べきだが、実際には、他の家にかかってきた電話もひそかに聞いていて、それが離れた家々をつなぐ情報共有にもなっていた、そうです。漏れ聞こえるのではなく、「しっかりと漏れ聞く」。
この話をTomさんに伝えると、「そうそう、party lineのことだね」と言ってました。日本でも、携帯が普及するまでは、家の固定電話の会話を他の家族が聞いていたし、アパートに電話が1台しかなく、廊下の電話の話し声が各部屋に聞こえていました。「漏れ聞こえる」状態はつい最近まで当たり前にあったのかな、と思います。
30年前のバングラデシュ農村の「漏れ出る」
文化や政治、時代によっても、「漏れる」ことの許容範囲は大きな違うなあと思います。Mugikoは、1980年代末から90年代はじめにバングラデシュ農村のムスリム集落に住んでいました。当時は、多くの女性たちは集落の外を自由に出歩くことはありませんでした。それでも、女性たちは地域のいろいろな情報をよく知っていました。また、この地域には、どの集落にも週に一度、施しの曜日がありました。身体が不自由で働くことが難しい男性や、世帯に稼ぎ手がいなく収入の手段も見つからない女性たちが、物乞いをして米などの施しをもらって生計をたてていました。女性が出回ることは宗教の規範からは良しとされてはいませんでしたが、漏れ出ざるをえない人たちを受け入れる地域の仕組みが当時は機能していました。また、女性の物乞いたちは敷地の内側の空間に入り込み、その住民女性たちと直接にことばをかわし、施しをもらうだけでなく、場合によってはちょっとした作業を手伝ったりしていました。そこにある種の口コミ文化が生きていました。
漏れること、はみ出ることが許されえない社会
他方、グラミンバンクなどをとおして女性たちも資金を得て生業を営み少しずつ借金を返済する暮らしを展開するようになると、「働かざるものは食うべからず」という意識も強くなりつつありました。労働への考え方や宗教と政治の関係が変わると、漏れること、はみ出ることが、許されえない社会にもなりかねない。「漏れちゃう。のは本当にダメなことなのだろうか」という問いかけは、Mugikoにはふっと「昔」のバングラデシュ農村の風景を思い出せてくれました。
ICT、AIの展開と「漏れる」
情報通信技術(ICT)の発達や前回まで話していた人工知能(AI)の展開は、「漏れる社会」とどんな相性なんだろう。Ryutaさんの話では、そもそものコンピュータのプログラムや仕組みは、情報の漏れが生じない制御されたシステムとして作られています。またデジタル化された情報は、対面のコミュニケーションよりも情報を限定してると一般には言われています。VRの世界においてもアバターは、その人の全てではなくある意味、なりたい、出したい自分を演出することができます。かといって、対面のコミュニケーションでも漏れ出てほしくない情報は表出しないようにしているけれど。
滅菌されすぎていない状態
ICTやAIが発達したとしても、鷲田さんや伊藤さんたちがいう「漏れる」社会のあり方は、Ryutaさんが英語で表現するとしたら、not be over-sterilized(滅菌されすぎてない状態)。この表現に、Mugikoはなるほど、と思いました。というのは、RITA MAGAZINEに、中島岳志、ドミニク・チェン「人間ではない『隣人』の声が聞こえる!?」(pp.147-167)という対談が掲載されていました。
Nukabotとの対話をとおして糠の声を聞く人の感性を育む
そこで、ドミニク・チェンさんたちグループが研究・開発中のNukabotが話題になっていました。Nukabotには、お漬物のぬか床内の発酵状態を検知し、人間に知らせてくれるセンサーがついています。糠漬けは、誰がどんな手が混ぜるかによって、菌の状態も発酵の仕方も変わります。あくまでも人が糠の状態に耳をすまし適当に対応をしなければおいしいお漬物になりません。Nukabotにどんな優秀なセンサーがついていたとしても、それが自動的に糠漬けを作るのではなく、人に命令して操作させるのでもなく、あくまでもNukabotと人の対話が人に糠の声を聞く感性を育んでゆきます。
このプロジェクトの話は、AIと人とのやさしい(?)関わり方の可能性を示してくれるようで、Mugikoにとっては印象的でした。なので、この本やNukabotについて知らないRyutaさんが、「漏れる」社会を、滅菌されすぎない社会と表現したのは「言い得て妙」でした。-Mugi
■Carmen McRae「Alone Together」■笹川美和「こもれび」■Joanna Sternberg「This is Not Who I Want to Be」■月島晴海「つながりうた もりのおく」