No.625, March 17, 2023, 時間と場所をこえて記録をつなぐプロジェクト第4話 60年前の柳沢健さんのScrap BookとD. Plathさんからの航空便

St. Patrick’s Day, 日本各地で桜が咲き始め

625回の放送日、3月17日はSt. Patrick’s Dayでした。イリノイ大学近辺のパブでは賑わいを取り戻しているでしょうか。番組収録は、日本時間の3月16日、RyutaさんはShizuokaから、MugikoはKyotoから参加しました。今年は桜は開花が早く、Tokyoでは3月14日、Kyotoでは3月17日に、開花が観測されたそうです。(気象庁、2023年の桜の開花

Part1, St. Patrick’s Day. 柳沢一実さんからの思いがけない手紙

Part2, 柳沢健さんのスクラップブックとD. Plathさんからのエアメール

Part3, 海軍の上陸休暇でPlathさんが見た日本、文化人類学へ

時間と場所を超えて記録をつなぐプロジェクト第4話

プロジェクトの始まり:Plathさんからの依頼

2021年1月、Mugikoは、Savoy(Champaign County)在住のDavid W. Plathさん(1930-2022、イリノイ大学名誉教授、東アジア研究、映像人類学)からメールを受け取りました。Plathさんの最初のフィールドワークの記録とその成果をまとめた本『The After Hours:Modern Japan and the Search for Enjoyment』の挿絵を描いた松本市の画家、柳沢健さんの絵を地元にお返ししたい。現地の美術館に日本語で連絡をとってもらえないか。Plathさんは、1959年から60年にかけて当時の長野県安曇野郡穂高町有明(現安曇野市)に家族とともに下宿し、松本市を中心に「余暇」についての調査研究を行いました。

エピソード:第1-3話

90歳のPlathさんからの相談を受けて、Harukana Showに出演された画家の植村友哉さんに協力をお願いし、健さんが所属されている春陽会の東北信研究会を通して、息子の柳沢一実さんと連絡をとることができました。こうして、半世紀の時間と場所をこえて記録をつなぐプロジェクトが始まりました(第1話:No.553-2)。

Plath先生からの絵と資料は、最終的には、一実さんの紹介で長野県朝日村の朝日美術館にを寄贈することになりました。コロナ禍で輸送が難しい時期でしたが、2021年秋までにイリノイから絵と資料が美術館に届けられました(第2話:No.554-2)。柳沢健さんは、2021年6月に亡くなられましたが、健さんの奥さまと一実さんの家族は、その年の暮れに朝日美術館を訪問し健さんの絵と再会しました(第3話: No.577)。Plathさんからは、その後も、数ヶ月ごとメールをいただきましたが、2022年11月に亡くなられました(No.607)。

第4話の始まり〜柳沢健さんのScrap Book「印刷物等の記録」

2023年2月、Mugikoは、一実さんからのレターパックを受けとりました。思いがけない第4話の始まりでした。

「先日、片付け上手な母が父の古いファイルを見つけてきました。その中から、これあの外人さんじゃないかぁ?と言って持ってきたのが当時の新聞の切り抜きでした、几帳面な父でしたからこのような形で見つかったことも納得できます。他にもプラース先生が日本語による手紙がファイルされていました。プラース先生が日本語も堪能だったということを知って、日本文化に心を打たれたんだということを改めて感じました。そんなプラース先生の思いを父が理解したうえで引き受けたんだと思いました。実物を見れば当時の雰囲気を感じられると思いますが、とりあえずコピーと写真をお送りさせていただきます。2021年2月14日柳沢一実」

「こちらと同じように人間である」- Dave Plath, 10 September 1963

Plathさんの手書きの手紙は、ひらかな、漢字、カタカナ、アルファベットのどの文字からも息づかいが伝わってきます。Plathさんが松本での暮らしと人々とのふれあいから学んだことと、健さんが描いた絵が共鳴したのだと思います。こんな手紙です(原文のまま)。

Ryutaさんが、第2次世界大戦後、日米の関係が強くなり、大学において、専門性の高い、かつ実践で使える日本語教育が行われていたとコメントされました。次に紹介する『南信讀賣』の新聞記事によると、Plathさんはハーバード大学で、後に日本大使となるEdwin Reischauerから日本語を学んだそうです。高い日本語能力を活かして、松本でも人々の暮らしの場面に立ち会う調査をされていたのだと思います。

翌年、1964年に『The After Hours』が出版されました。表紙と8つの章はそれぞれ、健さんのイラストから始まります。この本についての記事が、地元の『南信讀賣』昭和39年6月10と『朝日新聞』昭和39年6月13日に掲載されました。『南信讀賣』の記事からは、1950年代末から1960年代にかけてのPlathさんの研究の位置づけや柳沢健さんへイラストを依頼された経緯がわかります。

“信州の農村“ 米人の手で単行本 生活体験を生かし 柳沢画伯の墨絵入り

さる34年秋から一年間、信州の農村に住んで、日本文化を研究した、アメリカの青年学徒があった。アイオワ大学で、人類学を教えているダビト・W・プラス助教授(34)で、先月末、研究結果を単行本として出版した。この本には、松本市里山区、画家柳沢健さん(38)の墨絵が、8枚、挿絵に使われている。2人は、お互いに会ったこともないが、このほどできたての本3冊が、航空便で柳沢さんに送られてきた。「この研究に、これ以上ふさわしい挿絵はありません」の感謝状が添えられていた。

「The after hours.」“仕事を終えて”と言うものだろう。これが本の題名で、A5判、220ページ。専門的には日本の “民俗誌”の研究だ。プラス助教授は、終戦後、米海軍将校として来日し、日本文化に心をうたれた。帰国して、ハーバード大学で文化人類学を専攻した。このとき、日本語を教えたのが、現ライシャワー大使だった。

34年9月来日したプラスさんは、東大の泉靖一助教授(文化人類学)の紹介で、信州大学医学部第2解剖学の鈴木誠教授、香原志勢助教授を訪れた。夫人と長男、長女の一家族で、香原さんの知人宅、南安曇郡穂高町有明、開業医赤沼茂芳さん方で生活するようになった。ここの生活にすっかりとけ込んで農村の仕事とレジャーに研究の対象を求めた。

日本文化は農村が柱になっている。日本の社会構造の変化を、農民生活から調査したもので、そのテーマが”余暇“だった。当時、日本には、余暇と言うことばはまだ聞かれず、36年になって”レジャー“のことばが流行した。

プラスさんは、赤沼さんから和歌も学んだ。35年10月、プラスさんは東京に移った。36年1月末帰国するとき、ライシャワー大使が日本へやってきた。香原助教授にプラスさんが「さしえがほしい」と相談してきたのはその年の秋。日本美術家連盟会員の柳沢さんに、話が持ち込まれた。柳沢さんは、専門の油絵を墨絵に変えて、取材旅行を続けた。やがて、いくつものを作品が、プラスさんに届けられた。

「絵を見たとき、思わず、“これだ!”と叫びました。この声は、松本まで聞こえたでしょう…」とプラスさんは、手紙に書いてきた。プラスさんの本には「小説は一人で書かれるが、民俗誌は、生活の中から生まれるものである。この本は、テレビのドキュメンタリーのように、多くの人たちの努力によってできた」という書き出しで始まる。写真はない。文字以外は柳沢さんのさしえだけ。表紙には松本一の繁華街、縄手通り。本文は、八章に分かれており、各章ごとにさしえがはいっている。松本駅の朝、イネ刈り、サラリーマン家庭の朝の玄関、小学校と二宮金次郎、花見、婦人会、団地、夜のこたつの団らんーなど。

外人学者の著書に、日本の画家の挿絵が使われたのは、これがはじめてといわれる。プラスさんは、来年、また、来日するという。柳沢さんは、それを楽しみに待っている。『南信讀賣』昭和39年(1964年)6月10日8版(16)

松本市の柳沢健さん宅への訪問-1965

健さんは、2つの新聞記事のコピーをアメリカのPlathさん送り、それを受け取った返信が、1964年8月25日付のPlathさんからのもう1通の手紙です。そこには、「先ほどのお便りも切り抜きもありがとうございました。楽しみに読みまして英訳して出版部の方々も喜ばれました。・・・・・特に立派な挿絵を褒められるのは嬉しいことです。では春頃までに。Best Wishes, Dave Plath, 八月二十五日」と記されていました。

そして、翌年1965年に、Plathさんが来日し、香原さんの案内で柳沢健さん宅を訪問しました。炬燵に入ってPlathさんと健さんが談笑する写真が、Plathさんのアルバムにも、健さんのアルバムにも残っていました。Mugikoが2021年2月12日に柳沢一実さんと初めてお電話でお話したときに、一実さんが健さんのアルバムに海外からの訪問客の写真があったことを思い出されました。そこから、時を超えてイリノイと長野をつなぐ試みが始まりました。

朝鮮戦争、海軍から日本への関心、文化人類学への道

2023年2月8日のAsia Now にWilliam W. Kelly (Yale University)「David William Plath (1930-2022)」が掲載されました。2022年11月4日に亡くなられたPlathさんへの追悼文です。この文章と『南信讀賣』の記事を合わせて読むと、Plathさんがどのような経緯で日本へ関心をもち、安曇野に住み、松本市の調査をされたのかがわかります。番組では、Ryutaさんが日本語で要約しました。ここでは、長い追悼文の最初の一部を紹介します。

Daveは、1930年にイリノイ州のElginに生まれました。高校生の時から書くことに関心を持ち地方新聞で働いていました。Northwestern Universityではジャーナリズムを専攻しました。1952年に大学を卒業した時には朝鮮戦争のまっただなかでした。海軍予備役に参加し太平洋艦隊に配属されました。上陸休暇で日本に滞在した時に強く心を動かされ、一年間の役務の後、日本での配属を希望し、横須賀近郊の小さなラジオ局に一年間、勤務しました。

除隊後、Daveはハーバード大学の大学院に進学しました。文化人類学を選んだのは海軍の艦内のライブラリーで見つけた2冊の本を読んだことがきっかけでした。1冊はRuth Benedict, The Chrysanthemum and the Sword 、もう1冊はClyde Kluckhohn,  Mirror for Manです。1959年に人類学と極東研究で修士号をえました。

博士課程のフィールドワークとして、日本の日常生活における余暇のパターンについての研究をしようと計画を立てていました。ところが当時の人類学では、農村調査をするべきだという理由で申請は受け入れられませんでした。次に、「温泉を研究する」と提案しましたが、軽薄だとまたもや却下。3つめの提案として、日本の中部山岳地帯の村に住み、松本をベースに、町の人々や農村の生活様式や、温泉などを含む余暇について研究も行うという申請が通りました。1962年の彼の学位請求論文は、1964年にThe After Hours: Modern Japan and the Search for Enjoyment,として出版されました。

Daveは、1961年から1963年までカリフォルニア大学バークレー校に赴任し、その後、3年間アイオワ大学に勤務、1966年にイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校をに移り、人類学、東アジア研究、そして大学のために様々な役割を果たしました。1998年に名誉教授となった後も、研究、教育、メディア制作に取り組んできました。-by William W. Kelly, 抄訳 by Mugi

Plathさんが初めてKyotoを訪れた時の思い出をMugikoにメールで送ってくたことがあります。 Kellyさんの追悼文に記されていたように、1952 年のことです。

「世界は自分が想像していたよりずっと多様だ」-Plath

「1952年12月にアメリカ海軍の船で横須賀に到着しました。東京に立ち寄り、西銀座に数時間歩きましたが、道でも店内でも軍服を着たアメリカ兵、GIばかりがいて、日本に来たという実感はありませんでした。船は神戸に移動しました。そこで1日、京都観光に参加しました。寺院や神社の境内を歩き、版画や西陣織などもみたりしました。自分が育ったイリノイ州のちいさな町とは何と違うことだろう。世界は、自分が想像していたよりずっと多様だ。そんな世界の一部の日本についてもっと学びたいという強いおもいがわいてきました。この京うちわは、その時の気持ちを思い出させてくれました」D. Path, July 5, 2021, 抄訳 by Mugi, 第2話(HS No.554-2)

Plathさんが1950年代末に集めたフィールドワークの記録、柳沢健さんが残した1960年代のScrap Book「印刷物等の記録」とPlathさんからの手紙、KellyさんによるPlathさんの追悼文、PlathさんからMugiko宛のメールに綴られた日本での思い出、….別々に存在している記憶と記録を、いろいろな人がつなぎ、そこからまた物語がつむがれていく。健さん、Plathさんもあちらの世界から、「時と場所を超えて記録をつなぐプロジェクト」に参加されているのかもしれません。いつかまた、Harukana Showで第5話を未来に届けられますように。-Mugi

■Flogging Molly「The Seven Deadly Sins」■AKB48「桜の花びらたち2008」■TOKIO「Ambitious Japan!

Champaign County COVID-19 Cases, Updated on March 17, 2023, 8.57AM, CUPHD

 

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